第一 二十 座(日本古典原文倉庫)

          
     萬葉集  
     東歌(あづまうた)

 


         巻第十四  雑歌
         とをまりよまきにあたるまき
 くさぐさのうた  


          鹿持雅澄『萬葉集古義』による



          真仮名マトリックス
      
    万葉集名所考 
      
    万葉集古義 鹿持 雅澄 訓 
            - 国立国会図書館 デジタルライブラリー



            


3348 夏麻(なつそ)びく海上潟(うなかみがた)の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり

右の一首(ひとうた)は、上総(かみつふさ)の国の歌。

3349 葛飾(かづしか)の真間の浦廻(うらみ)を榜ぐ船の船人騒く波立つらしも

右の一首は、下総(しもつふさ)の国の歌。

3350 筑波嶺(つくはね)の新桑繭(にひぐはまよ)の衣はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲しも

或ル本ノ歌ニ曰ク、たらちねの。又云ク、あまた着欲しも。

3351 筑波嶺に雪かも降らる否諾(いなを)かも愛(かな)しき子ろが布(にぬ)*干さるかも

右の二首(ふたうた)は、常陸の国の歌。

3352 信濃(しなぬ)なる菅(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり

右の一首は、信濃の国の歌。

相聞(したしみうた)
3353 あら玉の伎倍(きへ)の林に汝(な)を立てて行きかつましも*寝(い)を先立たね

3354 伎倍人の斑衾(まだらぶすま)に綿さはだ入りなましもの妹が小床(をどこ)に

右の二首は、遠江(とほつあふみ)の国の歌。

3355 天の原富士の柴山木(こ)の暗(くれ)の時ゆつりなば逢はずかもあらむ

3356 富士の嶺(ね)のいや遠長き山道をも妹がりとへば気(け)に吟(よ)ばず来ぬ

3357 霞居る富士の山びに我が来なばいづち向きてか妹が歎かむ

3358 さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    ま愛(かな)しみ寝(ぬ)らくしまらく*さならくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ

一本ノ歌ニ曰ク、

    逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも

3359 駿河の海磯辺(おしへ)に生ふる浜つづら汝(いまし)を頼み母にたがひぬ 一ニ云ク、親にたがひぬ。

右の五首(いつうた)は、駿河の国の歌。

3360 伊豆の海に立つ白波のありつつも継ぎなむものを乱れ始(し)めめや

或ル本ノ歌ニ曰ク、白雲の絶えつつも継がむと思へや乱れそめけむ。
右の一首は、伊豆の国の歌。

3361 足柄の彼面此面(をてもこのも)にさす罠のか鳴る間静み子ろ吾(あれ)紐解く

3362 相模嶺(さがむね)の小峯見過(そ)ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾(あ)を音(ね)し泣くな

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    武藏嶺(むざしね)の小峰見隠し忘れ行く君が名懸けて吾(あ)を音し泣くる

3363 我が背子を大和へ遣りて待つ慕(した)す足柄山の杉の木の間か

3364 足柄(あしがら)の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし

或ル本ノ歌ノ末ノ句ニ曰ク、延ふ葛(くず)の引かり寄り来ね下なほなほに。

3365 鎌倉の見越の崎の石崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ

3366 ま愛(かな)しみさ寝に我(わ)は行く鎌倉の美奈の瀬川よ*潮満つなむか

3367 百(もも)づ島足柄小舟歩き多み目こそ離(か)るらめ心は思(も)へど

3368 足柄(あしがり)の土肥(とひ)の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに

3369 あしがりの麻萬(まま)の子菅(こすげ)の菅枕(すがまくら)あぜか纏(ま)かさむ子ろせ手枕(たまくら)

3370 あしがりの箱根の嶺(ね)ろのにこ草の花妻なれや紐解かず寝む

3371 足柄(あしがら)の御坂かしこみ曇り夜の吾(あ)が下延(ば)へを言出(こちで)つるかも

3372 相模道(さがむぢ)の餘綾(よろき)の浜の真砂(まなご)なす子らは愛(かな)しく思はるるかも

右の十二首(とをまりふたうた)は、相模の国の歌。

3373 多摩川に曝す手作りさらさらに何そこの子のここだ愛(かな)しき

3374 武藏野(むざしぬ)に占(うら)へ肩焼き真実(まさて)にも告(の)らぬ君が名占に出にけり

3375 武藏野の小岫(をぐき)が雉(きぎし)立ち別れ去にし宵より夫(せ)ろに逢はなふよ

3376 恋しけば袖(そて)も振らむを武藏野のうけらが花の色に出(づ)なゆめ

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    いかにして恋ひばか妹に武藏野のうけらが花の色に出ずあらむ

3377 武藏野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに吾(あ)は寄りにしを

3378 入間道(いりまぢ)の大家(おほや)が原のいはゐづら引かばぬるぬる我(わ)にな絶えそね

3379 我が背子をあどかも言はむ武藏野のうけらが花の時なきものを

3380 埼玉(さきたま)の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね

3381 夏麻びく菟原(うなひ)をさして飛ぶ鳥の至らむとそよ吾(あ)が下延へし

右の九首(ここのうた)は、武藏の国の歌。

3382 馬来田(うまぐた)の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我(わ)来なば汝(な)は恋ふばそも

3383 馬来田の嶺ろに隠り居かくだにも国の遠かば汝が目欲りせむ

右の二首は、上総(かみつふさ)の国の歌。

3384 葛飾(かづしか)の真間の手兒名(てこな)をまことかも我に寄すとふ真間の手兒名を

3385 葛飾の真間の手兒名がありしかば真間の磯辺(おすひ)に波もとどろに

3386 にほ鳥の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも

3387 足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ

右の四首(ようた)は、下総(しもつふさ)の国の歌。

3388 筑波嶺(つくはね)の嶺ろに霞居過ぎかてに息づく君を率(ゐ)寝て往(や)らさね

3389 妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな

3390 筑波嶺にかか鳴く鷲の音(ね)のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに

3391 筑波嶺に背向(そがひ)に見ゆる葦穂山悪しかる咎(とが)もさね見えなくに

3392 筑波嶺の岩もとどろに落つる水世にもたゆらに我が思はなくに

3393 筑波嶺の彼面此面(をてもこのも)に守部(もりべ)据ゑ母は守(も)れども*魂(たま)そ逢ひにける

3394 さ衣(ごろも)の小筑波嶺(をづくはね)ろの山の崎忘らえ来(こ)ばこそ汝(な)を懸けなはめ

3395 小筑波(をづくは)の嶺ろに月(つく)立し逢ひし夜は*多(さはだ)なりぬをまた寝てむかも

3396 小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに

3397 常陸なる浪逆(なさか)の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ

右の十首(とうた)は、常陸の国の歌。

3398 人皆の言は絶ゆとも埴科(はにしな)の石井の手児が言な絶えそね

3399 信濃道(しなぬぢ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ沓はけ我が背

3400 信濃なる千曲(ちぐま)の川の細石(さざれし)も君し踏みてば玉と拾はむ

3401 中麻奈(なかまな)に浮きをる船の榜ぎ出なば逢ふこと難し今日にしあらずは

右の四首は、信濃の国の歌。

3402 日の暮(ぐれ)に碓氷(うすひ)の山を越ゆる日は夫(せ)なのが袖もさやに振らしつ

3403 吾(あ)が恋はまさかも悲し草枕多胡(たこ)の入野の奥も悲しも

3404 上毛野(かみつけぬ)安蘇の真麻屯(まそむら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽かぬをあどか吾(あ)がせむ

3405 上毛野小野(をど)の多杼里(たどり)が川路にも子らは逢はなも独りのみして

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    上毛野小野(をぬ)の多杼里が川路にも*夫汝は逢はなも見る人なしに

3406 上毛野佐野の茎立(くくたち)折りはやし吾(あれ)は待たむゑことし来ずとも

3407 上毛野真桑(まぐは)島門(しまど)に朝日さし眩(まきら)はしもな在りつつ見れば

3408 新田山(にひたやま)嶺にはつかなな我(わ)に寄そり間(はし)なる子らしあやに愛(かな)しも

3409 伊香保ろに天雲い継ぎ鹿沼(かぬま)づく人とおたはふいざ寝しめとら

3410 伊香保ろの傍(そひ)の榛原ねもころに奥をな兼ねそまさかし良かば

3411 多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれどもあに来(く)や沈石(しづし)その顔よきに

3412 上毛野久路保(くろほ)の嶺ろの葛葉がた愛(かな)しけ子らにいや離(ざか)り来も

3413 利根川の川瀬も知らず直(ただ)渡り波に逢ふのす逢へる君かも

3414 伊香保ろの八尺(やさか)の堰塞(ゐて)に立つ虹(ぬじ)の顕(あら)はろまてもさ寝をさ寝てば

3415 上毛野伊香保の沼に植ゑ小水葱(こなぎ)かく恋ひむとや種求めけむ

3416 上毛野可保夜(かほや)が沼のいはゐつら引かば靡(ぬ)れつつ吾(あ)をな絶えそね

3417 上毛野伊奈良の沼の大藺草(おほゐぐさ)よそに見しよは今こそまされ 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。

3418 上毛野佐野田の苗の群苗(むらなへ)にことは定めつ今は如何にせも

3419 伊香保夫(せ)よ奈可中次下*思ひどろくまこそしつと忘れせなふも

3420 上毛野佐野の舟橋取り離し親は放(さ)くれど我(わ)は離(さか)るがへ

3421 伊香保嶺に雷(かみ)な鳴りそね我が上(へ)には故は無けども子らによりてそ

3422 伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど吾(あ)が恋のみし時なかりけり

3423 上毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪(よき)の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり

右の二十二首(はたちまりふたうた)は、上野(かみつけぬ)の国の歌。

3424 下毛野(しもつけぬ)三鴨の山の子楢(こなら)のす目妙(まぐは)し子ろは誰が笥(け)か持たむ

3425 下毛野安蘇(あそ)の川原よ石踏まず空ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心告(の)れ

右の二首は、下野(しもつけぬ)の国の歌。

3426 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲(しぬ)ひにせむと紐結ばさね

3427 筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥(みちのく)の片依(かとり)処女(をとめ)の結ひし紐解く

3428 安太多良(あだたら)の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のありつつも吾(あれ)は至らむ寝処(ねど)な去りそね

右の三首は、陸奥の国の歌。

譬喩歌(たとへうた)
3429 遠江(とほつあふみ)引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし吾(あれ)を頼めて浅(あ)さましものを

右の一首は、遠江の国の歌。

3430 志太(しだ)の浦を朝榜ぐ船はよしなしに榜ぐらめかもよ寄し来ざるらめ

右の一首は、駿河の国の歌。

3431 足柄(あしがり)の安伎奈(あきな)の山に引こ船(ぶね)の後(しり)引かしもよここば来難(こがた)に

3432 足柄のわをかけ山の穀(かづ)の木の我(わ)を拐(かづ)さねもかづさかずとも

3433 薪伐(こ)る鎌倉山の木垂(こだ)る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ

右の三首は、相模の国の歌。

3434 上毛野安蘇山黒葛(つづら)野を広み延(は)ひにしものをあぜか絶えせむ

3435 伊香保ろの傍(そひ)の榛原(はりはら)我が衣(きぬ)に着(つ)き宜(よら)しもよ絹布(たへ)と思へば

3436 しらとほる*小新田山(をにひたやま)の守(も)る山のうら枯れせなな常葉(とこは)にもがも

右の三首は、上野の国の歌。

3437 陸奥の安太多良(あだたら)真弓弾(はじ)き置きて撥(せ)らしめきなば弦(つら)著(は)かめかも

右の一首は、陸奥の国の歌。


雑歌(くさぐさのうた)
3438 都武賀野(つむがぬ)に鈴が音(おと)聞こゆ上志太(かむしだ)の殿の仲子(なかち)し鳥猟(とがり)すらしも

或ル本ノ歌ニ曰ク、美都我野(みつがぬ)に。又曰ク、若子(わくご)し。

3439 鈴が音(ね)の早馬駅(はゆまうまや)の堤井の水を賜へな妹が直手(ただて)よ

3440 この川に朝菜洗ふ子汝(なれ)も吾(あれ)も同輩児(よち)をそ持てるいで子賜(こたば)りに 一ニ云ク、汝(まし)も吾(あれ)も。

3441 ま遠くの雲居に見ゆる妹が家(へ)にいつか至らむ歩め吾(あ)が駒

柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ曰ク、遠くして。又曰ク、歩め黒駒。

3442 東道(あづまぢ)の田子の呼坂(よびさか)越えかねて山にか寝むも宿りは無しに

3443 うらもなく我が行く道に青柳の張りて立てれば物思(も)ひ出(で)つも

3444 伎波都久(きはつく)の岡の茎韮(くくみら)我摘めど籠(こ)にも満たなふ夫(せ)なと摘まさね

3445 湊のや葦が中なる玉小菅刈り来(こ)我が背子床(とこ)の隔(へだ)しに

3446 妹なろが使ふ川津のささら荻葦と一如(ひとごと)語り宜(よら)しも

3447 草陰の安努野(あぬな)行かむと墾(は)りし道安努は行かずて荒草(あらくさ)だちぬ

3448 花散らふこの向つ峰(を)の小名(をな)の峰(を)のひじにつくまて君が代もがも

3449 白妙の衣の袖を真久良我(まくらが)よ海人榜ぎ来(く)見ゆ波立つなゆめ

3450 乎久佐男(をくさを)と乎具佐好男(をぐさずけを)と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり

3451 左奈都良(さなつら)の岡に粟蒔き愛(かな)しきが駒は揚(た)ぐとも我(わ)はそとも追(は)じ

3452 おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生ひは生ふるがに

3453 風の音(と)の遠き我妹(わぎも)が着せし衣袂の行(くだり)まよひ来にけり

3454 庭にたつ麻布小衾(あさてこぶすま)今宵だに夫(つま)寄しこせね麻布小衾

相聞(したしみうた)
3455 恋しけば来ませ我が背子垣内柳(かきつやぎ)末(うれ)摘み刈らし我立ち待たむ

3456 うつせみの八十言(やそこと)のへは繁くとも争ひかねて吾(あ)を言成すな

3457 うち日さす宮の我が夫(せ)は大和女(やまとめ)の膝枕(ま)くごとに吾(あ)を忘らすな

3458 汝兄(なせ)の子や鳥の岡道(おかぢ)し中手折(だを)れ吾(あ)を音(ね)し泣くよ息(いく)づくまてに

3459 稲舂けば皹(かか)る吾(あ)が手を今宵もか殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ

3460 誰(たれ)そこの屋の戸押そぶる新嘗(にふなみ)に我が夫(せ)を遣りて斎(いは)ふこの戸を

3461 あぜと言へか実(さね)に逢はなくに真日暮れて宵なは来(こ)なに明けぬ時(しだ)来る

3462 あしひきの山澤人(やまさはびと)の人多(さは)に愛(まな)と言ふ子があやに愛(かな)しさ

3463 ま遠くの野にも逢はなむ心なく里のみ中に逢へる夫(せ)なかも

3464 人言の繁きによりて真小薦(まをごも)の同(おや)じ枕は我(わ)は纏(ま)かじやも

3465 高麗錦紐解き放けて寝(ぬ)るが上(へ)にあどせろとかもあやに愛(かな)しき

3466 ま憐(かな)しみ寝(ぬ)れば言に出(づ)さ寝なへば心の緒ろに乗りてかなしも

3467 奥山の真木の板戸(いたと)をとどとして我が開かむに入り来て寝(な)さね

3468 山鳥の尾ろのはつ尾に鏡懸け唱ふべみこそ汝(な)に寄そりけめ

3469 夕占(ゆふけ)にも今宵と告(の)らろ我が夫(せ)なはあぜそも今宵依(よし)ろ来まさぬ

3470 相見ては千年やいぬる否をかも吾(あれ)やしか思(も)ふ君待ちがてに 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。

3471 しまらくは寝つつもあらむを夢(いめ)のみにもとな見えつつ吾(あ)を音(ね)し泣くる

3472 人妻とあぜかそを言はむ然らばか隣の衣を借りて着なはも

3473 佐野山に打つや斧音(をのと)の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる

3474 植竹の本さへ響(とよ)み出でて去(い)なばいづし向きてか妹が嘆かむ

3475 恋ひつつも居らむとすれど木綿間山(ゆふまやま)隠れし君を思ひかねつも

3476 うべ子汝(な)は我(わ)ぬに恋ふなも立と月(つく)の流(ぬが)なへ行けば恋(こふ)しかるなも

或ル本ノ末ノ句ニ曰ク、ぬがなへ行けど我ぬ行がのへば

3477 東道の田子の呼坂越えて去なば吾(あれ)は恋ひむな後は逢ひぬとも

3478 遠しとふ故奈(こな)の白嶺(しらね)に逢ほ時(しだ)も逢はのへ時(しだ)も汝にこそ寄され

3479 安可見山(あかみやま)草根刈り除(そ)け逢はすが上(へ)争ふ妹しあやに愛(かな)しも

3480 大王(おほきみ)の命(みこと)かしこみ愛(かな)し妹が手枕離れ徭役(よだ)ち来(き)ぬかも

3481 あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦(ぐる)しも 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。上ニ見エタルコト已ニ記セリ。

3482 韓衣(からころも)裾の打交(うちかへ)逢はねども異(け)しき心を吾(あ)が思(も)はなくに

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    韓衣裾の打交(うちかひ)逢はなへば寝なへのからに言痛(ことた)かりつも

3483 昼解けば解けなへ紐の我が夫(せ)なに相依るとかも夜解けやする

3484 麻苧(あさを)らを麻笥(をけ)に多(ふすさ)に績(う)まずとも明日来(き)せざめやいざせ小床に

3485 剣大刀(つるぎたち)身に添ふ妹を取り見がね音をそ泣きつる手児(てこ)にあらなくに

3486 愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並(な)べ向(ま)き如己男(もころを)のこととし言はばいや勝たましに

3487 梓弓末にたままきかくすすそ寝なな成りにし奥を兼ぬ兼ぬ

3488 大楚(おふしもと)この本山の真吝(ましは)にも告らぬ妹が名兆(かた)に出でむかも

3489 梓弓欲良(よら)の山辺の繁(しが)かくに妹ろを立ててさ寝処(ねど)払ふも

3490 梓弓末は寄り寝むまさかこそ人目を多み汝を間(はし)に置けれ 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。

3491 柳こそ伐(き)れば生えすれ世の人の恋に死なむを如何にせよとそ

3492 小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも

3493 遅速(おそはや)も汝をこそ待ため向つ峰(を)の椎の小枝(こやで)の逢ひは違(たけ)はじ

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    遅速も君をし待たむ向つ峰の椎のさ枝の時は過ぐとも

3494 兒持山(こもちやま)若鶏冠木(わかかへるで)の黄葉(もみ)つまて寝もと我(わ)は思(も)ふ汝はあどか思(も)ふ

3495 伊香保(いはほ)ろの*傍(そひ)の若松限りとや君が来まさぬ心許(うらもと)無くも

3496 橘の古婆(こば)の放髪(はなり)が思ふなむ心愛(うつ)くしいで吾(あれ)は行かな

3497 川上の根白高草(ねじろたかがや)あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出にしか

3498 海原(うなはら)の萎柔(ねやはら)子菅あまたあれば君は忘らす我忘るれや

3499 岡に寄せ我が刈る草(かや)のさ萎草(ねかや)のまこと柔(なご)やは寝ろと言(へ)なかも

3500 紫草(むらさき)は根をかも終ふる人の子のうら愛(がな)しけを寝を終へなくに

3501 安波峰(あはを)ろの峰(を)ろ田に生はるたはみづら引かばぬるぬる吾(あ)を言な絶え

3502 我が目妻人は放(さ)くれど朝顔の年副(さ)へこごと我(わ)は離(さか)るがへ

3503 安齊可潟(あせかがた)潮干の寛(ゆた)に思へらばうけらが花の色に出めやも

3504 春へ咲く藤の末葉(うらば)の心安(うらやす)にさ寝(ぬ)る夜そ無き子ろをし思(も)へば

3505 うちひさつ美夜能瀬川(みやのせがは)の容花(かほばな)の恋ひてか寝(ぬ)らむ昨夜(きそ)も今宵も

3506 新室(にひむろ)の蚕時(こどき)に至ればはたすすき穂に出し君が見えぬこの頃

3507 谷狭(せば)み峰に延(は)ひたる玉かづら絶えむの心我が思(も)はなくに

3508 芝付(しばつき)の御浦崎なるねつこ草あひ見ずあらば吾(あれ)恋ひめやも

3509 栲衾(たくぶすま)白山(しらやま)風の寝なへども子ろが襲着(おそき)の有ろこそ善(え)きも*

3510 み空ゆく雲にもがもな今日行きて妹に言問ひ明日帰り来む

3511 青嶺(あをね)ろに棚引く雲のいさよひに物をそ思ふ年のこの頃

3512 一嶺ろに言はるものから青嶺ろにいさよふ雲の寄そり妻はも

3513 夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)のあぜか絶えむと言ひし子ろはも

3514 高き嶺に雲の著(つ)くのす我さへに君に著きなな高嶺と思(も)ひて

3515 吾(あ)が面(おも)の忘れむ時(しだ)は国溢(はふ)り嶺に立つ雲を見つつ偲(しぬ)はせ

3516 對馬の嶺は下雲あらなふ上(かむ)の嶺に棚引く雲を見つつ偲はも

3517 白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乗りてここば悲しけ

3518 岩の上(へ)にいがかる雲のかぬまづく人そおたはふいざ寝しめとら*

3519 汝が母に嘖(こ)られ吾(あ)は行く青雲の出で来(こ)我妹子相見て行かむ

3520 面形(おもかた)の忘れむしだは大野ろに棚引く雲を見つつ偲はむ

3521 烏とふ大嘘鳥(おほおそどり)の真実(まさて)にも来まさぬ君を子ろ来(く)とそ鳴く

3522 昨夜(きそ)こそは子ろとさ寝しか雲の上ゆ鳴きゆく鶴(たづ)の間遠く思ほゆ

3523 坂越えて阿倍の田の面(も)に居る鶴(たづ)のともしき君は明日さへもがも

3524 真小薦(まをごも)の結(ふ)のみ近くて逢はなへば沖つ真鴨の嘆きそ吾(あ)がする

3525 水久君沼(みくくぬ)に鴨の匍(は)ほのす子ろが上に言おろ延へていまだ寝なふも

3526 沼二つ通は鳥が巣吾(あ)が心二行くなもとな思はりそね*

3527 沖に住も小鴨のもころ八尺鳥(やさかどり)息づく妹を置きて来ぬかも

3528 水鳥の立たむ装(よそ)ひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも

3529 鳥矢(とや)の野に兎(をさぎ)ねらはりをさをさも寝なへ子ゆゑに母に嘖(ころ)ばえ

3530 さ牡鹿の臥すや草叢見えずとも子ろが金門(かなど)よ行かくしえしも

3531 妹をこそ相見に来しか眉引(まよびき)の横山辺ろの獣(しし)なす思へる

3532 春の野に草食(は)む駒の口やまず吾(あ)を偲ふらむ家の子ろはも

3533 人の子の愛(かな)しけ時(しだ)は浜洲鳥足悩(あなゆ)む駒の惜しけくもなし

3534 赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の子らはも

3535 己が男(を)をおほにな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢ふものを

3536 赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる夫(せ)なか我許(わがり)来むと言ふ

3537 垣(くへ)越しに麦食む駒のはつはつに相見し子らしあやにかなしも

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    馬柵(うませ)越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろしかなしも

3538 飜橋(ひろはし)を馬越しかねて心のみ妹がり遣りて我(わ)はここにして

或ル本ノ歌ノ発句ニ曰ク、小林(をはやし)に駒を馳ささげ。

3539 崖(あず)の上に駒を繋ぎて危(あや)ほかど人妻子ろを息に我がする

3540 左和多里(さわたり)の手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問はず来(き)ぬ

3541 崖辺(あずへ)から駒の行このす危(あや)はども人妻子ろをまゆかせらふも

3542 さざれ石に駒を馳させて心痛み吾(あ)が思(も)ふ妹が家のあたりかも

3543 むろがやの都留(つる)の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに

3544 飛鳥川下濁れるを知らずして夫(せ)ななと二人さ寝て悔しも

3545 飛鳥川塞(せ)くと知りせばあまた夜も率寝(ゐね)て来(こ)ましを塞くと知りせば

3546 青柳の波良(はら)ろ川門に汝を待つと清水(せみど)は汲まず立ち処(ど)平(なら)すも

3547 あぢの棲む須沙の入江の隠沼(こもりぬ)のあな息づかし見ず久にして

3548 鳴瀬ろに木積(こつ)の寄すなすいとのきて愛(かな)しけ夫(せ)ろに人さへ寄すも

3549 手結潟(たゆひがた)潮満ちわたるいづゆかも愛しき夫(せ)ろが我許(わがり)通はむ

3550 押して否と稲は舂かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜(きそ)独り寝て

3551 味鎌(あぢかま)の潟に咲く波平瀬にも紐解くものか愛(かな)しけを置きて

3552 麻都(まつ)が浦に騒(さわ)ゑうら立ち真他言(まひとごと)思ほすなもろ我が思(も)ほのすも

3553 味鎌の可家(かけ)の湊に入る潮の言痛(こてた)けくもか*入りて寝まくも

3554 妹が寝(ぬ)る床のあたりに岩泳(ぐく)る水にもがもよ入りて寝まくも

3555 真久良我(まくらが)の許我(こが)の渡の柄楫(からかぢ)の音高(だか)しもな寝なへ子ゆゑに

3556 潮船の置かれば悲しさ寝つれば人言繁し汝をどかもしむ

3557 悩ましけ人妻かもよ榜ぐ舟の忘れはせなないや思(も)ひ増すに

3558 逢はずして行かば惜しけむ真久良我(まくらが)の許賀(こが)榜ぐ船に君も逢はぬかも

3559 大船を舳(へ)ゆも艫(とも)ゆも堅めてし許曾(こそ)の里人あらはさめかも

3560 真金(まかね)吹く丹生(にふ)の真朱(まそほ)の色に出て言はなくのみそ吾(あ)が恋ふらくは

3561 金門田(かなとだ)を新掻(あらがき)まゆみ日が照(と)れば雨を待とのす君をと待とも

3562 荒磯辺(ありそへ)に*生ふる玉藻の打ち靡き独りや寝(ぬ)らむ吾(あ)を待ちかねて

3563 比多潟(ひたがた)の磯の若布の立ち乱え我(わ)をか待つなも昨夜(きそ)も今宵も

3564 小菅ろの浦吹く風のあどすすか愛(かな)しけ子ろを思ひ過ごさむ

3565 彼の子ろと寝ずやなりなむ旗すすき浦野の山に月片寄るも

3566 我妹子に吾(あ)が恋ひ死なば其(そこ)をかも*神に負ほせむ心知らずて

防人の歌
3567 置きて行かば妹はま悲し持ちて行く梓の弓の弓束(ゆつか)にもがも

3568 後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを

右の二首は、問答(とひこたへのうた)。

3569 防人に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に手放(たばな)れ惜しみ泣きし子らはも

3570 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕へし汝をば偲はむ

3571 己の妻を人の里に置きおほほしく見つつそ来ぬるこの道の間

譬喩歌(たとへうた)
3572 あど思(も)へか阿自久麻山(あじくまやま)の弓絃葉(ゆづるは)の含(ふふ)まる時に風吹かずかも

3573 あしひきの山葛蘿(やまかづらかげ)ましはにも得がたき蘿(かげ)を置きや枯らさむ

3574 小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれど末(うら)若みこそ

3575 美夜自(みやじ)ろの岡辺に立てる貌が花な咲き出でそね隠(こ)めて偲はむ

3576 苗代の子水葱(こなぎ)が花を衣に摺り馴るるまにまにあぜか愛(かな)しけ

挽歌(かなしみうた)
3577 かなし妹をいづち行かめと山菅の背向(そがひ)に寝しく今し悔しも

以前ノ歌詞、未ダ国土山川ノ名ヲ勘ヘ知ルコトヲ得ズ。


         巻頭へ戻る