第一 二十 座(日本古典原文倉庫)

          
     萬葉集  

 


         巻第八  春の雑歌
         やまきにあたるまき
 はるのくさぐさのうた  


          鹿持雅澄『萬葉集古義』による



          真仮名マトリックス
      
    万葉集名所考 
      
    万葉集古義 鹿持 雅澄 訓 
            - 国立国会図書館 デジタルライブラリー



            


志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌(みうた)一首(ひとつ)

1418 石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出(づ)る春になりにけるかも

鏡女王(かがみのおほきみ)*の歌一首

1419 神奈備(かむなび)の石瀬(いはせ)の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ吾(あ)が恋まさる

駿河釆女(するがのうねべ)が歌一首

1420 沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも

尾張連(をはりのむらじ)が歌二首(ふたつ)

1421 春山の崎の撓(たを)りに*春菜摘む妹が白紐見らくしよしも

1422 打ち靡く春来たるらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば

中納言(なかのものまをすつかさ)阿倍廣庭の卿(まへつきみ)の歌一首

1423 去年(こぞ)の春いこじて植ゑし我が屋戸の若木の梅は花咲きにけり

山部宿禰赤人が歌四首(よつ)

1424 春の野にすみれ摘みにと来し吾(あれ)ぞ野をなつかしみ一夜寝にける

1425 あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも

1426 我が背子に見せむと思(も)ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば

1427 明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ

草香山(くさかやま)の歌一首

1428 押し照る 難波を過ぎて 打ち靡く 草香の山を
   夕暮に 吾(あ)が越え来れば 山も狭(せ)に 咲ける馬酔木(あしび)の
   悪(あ)しからぬ 君をいつしか 行きて早見む

右の一首(ひとうた)は、作者(よみひと)微(いや)しきに依りて名字(な)を顕さず。

桜の花の歌一首、また短歌(みじかうた)

1429 娘子(をとめ)らが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)の 蘰(かづら)のためと
   敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の 匂ひはもあなに

反し歌

1430 去年(こぞ)の春逢へりし君に恋ひにてき*桜の花は迎へけらしも

右の二首は、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ誦(うた)へりき。

山部宿禰赤人が歌一首

1431 百済野(くだらぬ)の萩の古枝に春待つと来居し*鴬鳴きにけむかも

大伴坂上郎女が柳の歌二首

1432 我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも

1433 打ち上ぐる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも

大伴宿禰三依(みより)*が梅の歌一首

1434 霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ

厚見王(あつみのおほきみ)の歌一首

1435 かはづ鳴く神奈備川に影見えて今や咲くらむ山吹の花

大伴宿禰村上が梅の歌二首

1436 含(ふふ)めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも

1437 霞立つ春日の里の梅の花あらしの風に*散りこすなゆめ

大伴宿禰駿河麻呂(するがまろ)が歌一首

1438 霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと吾(あ)が思(も)はなくに

中臣朝臣武良自(むらじ)が歌一首

1439 時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺(へ)に霞たなびく

河邊朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)が歌一首

1440 春雨のしくしく降るに高圓(たかまと)の山の桜はいかにかあるらむ

大伴宿禰家持が鴬の歌一首

1441 打ち霧(き)らし雪は降りつつしかすがに吾宅(わぎへ)の苑に鴬鳴くも

大蔵少輔(おほくらのすなきすけ)丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が歌一首

1442 難波辺(なにはへ)に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ

丹比真人乙麻呂(おとまろ)が歌一首

1443 霞立つ野の上(へ)の方に行きしかば鴬鳴きつ春になるらし

高田女王の歌一首

1444 山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり

大伴坂上郎女が歌一首

1445 風交り雪は降るとも実にならぬ吾宅(わぎへ)の梅を花に散らすな

大伴宿禰家持が春雉(きぎし)の歌一首

1446 春の野にあさる雉の妻恋に己(おの)があたりを人に知れつつ

大伴坂上郎女が歌一首

1447 世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ

右ノ一首、天平四年三月一日、佐保ノ宅ニテ作(ヨ)メリ。

春の相聞(したしみうた)


大伴宿禰家持が坂上(さかのへ)の家の大嬢(おほいらつめ)に贈れる歌一首

1448 我が屋戸に蒔きし撫子いつしかも花に咲きなむなそへつつ見む

大伴田村家(おほとものたむらのいへ)の大嬢が妹(いも)坂上大嬢(さかのへのおほいらつめ)に与(おく)れる歌一首

1449 茅花(ちばな)抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり吾(あ)が恋ふらくは

大伴宿禰家持が坂上郎女に贈れる歌一首*

1450 心ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは

笠女郎が大伴家持に贈れる歌一首

1451 水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも

紀女郎が歌一首

1452 闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜(つくよ)に出でまさじとや

天平(てむひやう)五年(いつとせといふとし)癸酉(みづのととり)春閏三月(のちのやよひ)、笠朝臣金村が入唐使(もろこしにつかはすつかひ)に贈れる歌一首、また短歌

1453 玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思(も)ふ君は
   うつせみの 世の人なれば 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏み
   夕されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
   大船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き 白波の 高き荒海(あるみ)を
   島伝ひ い別れ行かば 留まれる 吾(あれ)は幣(ぬさ)取り*
   斎(いは)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ

反し歌

1454 波の上(へ)よ見ゆる児島(こしま)の雲隠りあな息づかし相別れなば

1455 玉きはる命に向ひ恋ひむよは君が御船の楫柄(かぢつか)にもが

藤原朝臣廣嗣が桜の花を娘子に贈れる歌一首

1456 この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠(こも)れるおほろかにすな

娘子が和ふる歌一首

1457 この花の一節のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや

厚見王の久米女郎に贈れる歌一首

1458 屋戸にある桜の花は今もかも松風疾(いた)み土に散るらむ

久米女郎が報へまつれる歌一首

1459 世の中も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも

紀女郎が合歓木花(ねぶのはな)と茅花(ちばな)とを折り攀(よ)ぢて、大伴宿禰家持に贈れる歌二首

1460 戯奴 変(カヘ)リテ云ク、ワケ がため吾(あ)が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食(め)して肥えませ

1461 昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花吾(あれ)のみ見めや*戯奴(わけ)さへに見よ*

大伴家持が贈和(こた)ふる歌二首

1462 吾(あ)が君に戯奴は恋ふらし賜(たば)りたる茅花を食(は)めどいや痩せに痩す

1463 我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも

大伴家持が坂上大嬢に贈れる歌一首

1464 春霞たなびく山の隔(へな)れれば妹に逢はずて月ぞ経にける

右、久邇京ヨリ寧樂ノ宅ニ贈レリ。

夏の雑歌(くさぐさのうた)


藤原夫人(ふぢはらのおほとじ)の歌一首*

1465 霍公鳥(ほととぎす)いたくな鳴きそ汝(な)が声を五月(さつき)の玉にあへ貫(ぬ)くまでに

志貴皇子の御歌一首

1466 神奈備の石瀬の杜の霍公鳥毛無(ならし)の岡にいつか来鳴かむ

弓削皇子の御歌一首

1467 霍公鳥無かる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも

小治田(をはりだ)の廣瀬王の霍公鳥の歌一首

1468 霍公鳥声聞く小野の秋風に萩咲きぬれや声の乏しき

沙弥が霍公鳥の歌一首

1469 あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に思ほゆ

刀理宣令(とりのせむりやう)が歌一首

1470 もののふの石瀬の杜の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭(とかげ)に

山部宿禰赤人が歌一首

1471 恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり

式部大輔(のりのつかさのおほきすけ)石上堅魚(いそのかみのかつを)の朝臣が歌一首

1472 霍公鳥来鳴き響(とよ)もす卯の花の共(むた)やなりしと*問はましものを

右、神亀五年戊辰、太宰帥大伴卿ノ妻大伴郎女、病ニ遇ヒテ長逝ス。時ニ勅使式部大輔石上朝臣堅魚ヲ太宰府イ遣シテ、弔喪ト賜物トセシム。其ノ事既ニ畢リテ、駅使ト府ノ諸卿大夫等ト、共ニ記夷城ニ登リテ望遊セシ日、乃チ此ノ歌ヲ作メリ。

太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴卿(おほとものまへつきみ)の和へたまへる歌一首

1473 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き

大伴坂上郎女が筑紫の大城山(おほきのやま)を思(しぬ)ふ歌一首

1474 今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ吾(あれ)無けれども

大伴坂上郎女が霍公鳥の歌一首

1475 何しかもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ

小治田朝臣廣耳(ひろみみ)が歌一首

1476 独り居て物思(も)ふ宵に霍公鳥こよ鳴き渡る心しあるらし

大伴家持が霍公鳥の歌一首

1477 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす

大伴家持が橘の歌一首

1478 我が屋戸の花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりなむ

大伴家持が晩蝉(ひぐらし)の歌一首

1479 籠りのみ居れば鬱(いふ)せみ慰むと出で立ち聞けば来鳴く日晩(ひぐらし)

大伴書持(ふみもち)が歌二首

1480 我が屋戸に月おし照れり霍公鳥心ある今宵来鳴き響もせ

1481 我が屋戸の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時

大伴清繩(きよなは)が歌一首

1482 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥吾(あれ)忘れめや

庵君諸立(いほりのきみもろたち)が歌一首

1483 我が背子が屋戸の橘花をよみ鳴く霍公鳥見にぞ吾(あ)が来し

大伴坂上郎女が歌一首

1484 霍公鳥いたくな鳴きそ独り居て寝(い)の寝らえぬに聞けば苦しも

大伴家持が唐棣花(はねず)の歌一首

1485 夏まけて咲きたるはねず久かたの雨うち降らば移ろひなむか

大伴家持が霍公鳥の晩喧(おそき)を恨む歌二首

1486 我が屋戸の花橘を霍公鳥来鳴かず土に散らしなむとか

1487 霍公鳥思はずありき木晩(このくれ)のかくなるまでに何か来鳴かぬ

大伴家持が霍公鳥を懽(よころ)ぶ歌一首

1488 いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥我家(わぎへ)の里に今日のみぞ鳴く

大伴家持が橘の花を惜しむ歌一首

1489 我が屋戸の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり

大伴家持が霍公鳥の歌一首

1490 霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか

大伴家持が、雨のふる日霍公鳥の喧くを聞きてよめる歌一首

1491 卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間(あまま)も置かずこよ鳴き渡る

橘の歌一首 遊行女婦(うかれめ)

1492 君が家(へ)の花橘は生(な)りにけり花なる時に逢はましものを

大伴村上が橘の歌一首

1493 我が屋戸の花橘を霍公鳥来鳴き響めて土に散らしつ*

大伴家持が霍公鳥の歌二首

1494 夏山の木末(こぬれ)の繁(しじ)に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ

1495 あしひきの木(こ)の間立ち潜(く)く霍公鳥かく聞きそめて後恋ひむかも

大伴家持が石竹花(なでしこ)の歌一首

1496 我が屋戸の撫子の花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも

筑波山に登らざりしを惜しむ歌一首

1497 筑波嶺(つくばね)に吾(あ)が行けりせば霍公鳥山びこ響め鳴かましやそれ

右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。

夏の相聞(したしみうた)


大伴坂上郎女が歌一首

1498 暇(いとま)無み来まさぬ君に霍公鳥吾(あ)がかく恋ふと行きて告げこそ

大伴四繩(よつなは)が宴に吟(うた)へる歌一首

1499 こと繁み君は来まさず霍公鳥汝(なれ)だに来鳴け朝戸開かむ

大伴坂上郎女が歌一首

1500 夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを

小治田朝臣廣耳が歌一首

1501 霍公鳥鳴く峯(を)の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ

大伴坂上郎女が歌一首

1502 五月山*花橘を君がため玉にこそ貫(ぬ)け散らまく惜しみ

紀朝臣豊河が歌一首

1503 我妹子が家の垣内(かきつ)のさ百合花ゆりと言へれば否(いな)ちふに似つ

高安の歌一首

1504 暇無み五月をすらに我妹子が花橘を見ずか過ぎなむ

大神女郎(おほみわのいらつめ)が大伴家持に贈れる歌一首

1505 霍公鳥鳴きしすなはち君が家(へ)に行けと追ひしは至りけむかも

大伴田村大嬢(おほとものたむらのおほいらつめ)が妹坂上大嬢に与(おく)れる歌一首

1506 故郷の奈良思(ならし)の岡の霍公鳥言告げ遣りし如何に告げきや

大伴家持が、橘花(たちばな)を攀ぢて坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌

1507 いつしかと 待つ我が屋戸に* 百枝さし 生ふる橘
   玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり
   朝に日(け)に 出で見るごとに 息の緒に 吾(あ)が思(も)ふ妹に
   真澄鏡(まそかがみ) 清き月夜に ただ一目 見せむまでには
   散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 吾(あ)が守(も)るものを
   うれたきや 醜(しこ)霍公鳥 暁の うら悲しきに
   追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 土に散らせば
   すべをなみ 攀ぢて手折りつ 見ませ我妹子(わぎもこ)

反し歌

1508 望降(もちくだ)ち清き月夜に我妹子に見せむと思(も)ひし屋戸の橘

1509 妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を土に散らしつ

大伴家持が紀女郎に贈れる歌一首

1510 撫子は咲きて散りぬと人は言へど吾(あ)が標めし野の花にあらめやも

秋の雑歌(くさぐさのうた)


崗本天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)一首

1511 夕されば小倉の山に鳴く鹿の*今夜は鳴かずい寝(ね)にけらしも

大津皇子の御歌一首

1512 経(たて)も無く緯(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織れる黄葉(もみち)に霜な降りそね

穂積皇子の御歌二首

1513 今朝の朝明(あさけ)雁が音(ね)聞きつ春日山もみちにけらし吾(あ)が心痛し

1514 秋萩は咲きぬべからし我が屋戸の浅茅が花の散りぬる見れば

但馬皇女の御歌一首 一書ニ云ク、子部王ノ作

1515 こと繁き里に住まずば今朝鳴きし雁に副(たぐ)ひて行かましものを

山部王の秋葉(もみち)を惜しみたまへる歌一首

1516 秋山ににほふ木の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲りせむ

長屋王の歌一首

1517 味酒(うまさけ)三輪の祝(いはひ)の山照らす秋の黄葉(もみちば)散らまく惜しも

山上臣憶良が七夕(なぬかのよ)の歌十二首(とをまりふたつ)

1518 天の川相向き立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな

右、養老八年七月七日、令ニ応ヘテ作メリ。

1519 久かたの天の川瀬に船浮けて今夜か君が我許(あがり)来まさむ

右、神亀元年七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ。

1520 牽牛(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地(あめつち)の 別れし時ゆ
   いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら 安からなくに
   嘆くそら 安からなくに 青波に 望みは絶えぬ
   白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ
   かくのみや 恋ひつつあらむ さ丹(に)塗りの 小舟(をぶね)もがも
   玉巻きの 真櫂もがも 朝凪に い掻き渡り
   夕潮に い榜ぎ渡り 久かたの 天の川原に
   天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き 真玉手の 玉手さし交(か)へ
   あまたたび いも寝てしかも* 秋にあらずとも

反し歌

1521 風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども吾(あ)が遠妻の言ぞ通はぬ

1522 礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき

右、天平元年七月七日ノ夜、憶良、天ノ河ヲ仰ギ観テ作メリ*。一ニ云ク、帥ノ家ノ作。

1523 秋風の吹きにし日よりいつしかと吾(あ)が待ち恋ひし君ぞ来ませる

1524 天の川いと川波は立たねども侍従(さもら)ひ難し近きこの瀬を

1525 袖振らば見も交(かは)しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば

1526 玉蜻(かぎろひ)のほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは

右、天平二年七月八日ノ夜、帥ノ家ニ集会フ。

1527 牽牛(ひこほし)の妻迎へ船榜ぎ出(づ)らし天の川原に霧の立てるは

1528 霞立つ天の川原に君待つとい通ふ程(ほと)に裳の裾濡れぬ

1529 天の川浮津の波音(なみと)騒くなり吾(あ)が待つ君し舟出すらしも

太宰(おほみこともち)の諸卿大夫(まへつきみたち)、また官人等(つかさびとたち)が、筑前国(つくしのみちのくちのくに)蘆城(あしき)の駅家(うまや)に宴する歌二首

1530 をみなへし秋萩交じる蘆城の野今日を始めて万代に見む

1531 玉くしげ蘆城の川を今日見てば万代までに忘らえめやも

右の二首は、作者(よみひと)未詳(しらず)。

笠朝臣金村が伊香山(いかごやま)にてよめる歌二首

1532 草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも

1533 伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花(をばな)し思ほゆ

石川朝臣老夫(をきな)が歌一首

1534 をみなへし秋萩折らな*玉ほこの道行き苞(つと)と乞はむ子のため

藤原宇合の卿の歌一首

1535 我が背子をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋の風吹く

縁達帥(えむたちし)が歌一首

1536 宵に逢ひて朝(あした)面なみ名張野の萩は散りにき黄葉(もみち)はや継げ

山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首

1537 秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花 其一

1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二

天皇(すめらみこと)のみよみませる御製歌二首

1539 秋の田の穂田を雁が音暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも

1540 今朝の朝明雁が音寒く聞きしなべ野辺の浅茅ぞ色づきにける

太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴卿の歌二首

1541 吾(あ)が岡にさ牡鹿来鳴く先萩(さきはぎ)の花妻問ひに来鳴くさ牡鹿

1542 吾(あ)が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも

三原王の歌一首

1543 秋の露は移しなりけり水鳥の青葉の山の色づく見れば

湯原王の七夕(なぬかのよ)の歌二首

1544 牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心よも見る吾(あれ)苦し夜の更けゆけば

1545 織女(たなばた)の袖纏(ま)く宵の*暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし

市原王の七夕の歌一首

1546 妹がりと吾(あ)が行く道の川なれば足結(あゆひ)正(なだ)すと*夜ぞ更けにける

藤原朝臣八束(やつか)が歌一首

1547 さ牡鹿の萩に貫(ぬ)き置ける露の白玉あふさわに誰の人かも手に巻かむちふ

大伴坂上郎女が晩(おくて)の萩の歌一首

1548 咲く花もうつろふは厭(う)し*奥手なる長き心になほしかずけり

典鑄正(いものしのかみ)紀朝臣鹿人(かひと)が、衛門大尉(ゆけひのおほきまつりごとひと)大伴宿禰稲公(いなきみ)が跡見(とみ)の庄(たどころ)に至りてよめる歌一首

1549 射目(いめ)立てて跡見の岡辺の撫子の花ふさ手折り吾(あれ)は持ち去(い)なむ奈良人のため

湯原王が鳴鹿(しか)の歌一首

1550 秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ

市原王の歌一首

1551 時待ちてしぐれの雨の降りしくに朝香の山の*黄葉(もみ)たひぬらむ

湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌一首

1552 夕月夜(ゆふづくよ)心もしぬに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも

衛門大尉大伴宿禰稲公が歌一首

1553 しぐれの雨間無くし降れば御笠山木末(こぬれ)あまねく色づきにけり

大伴家持が和(こた)ふる歌一首

1554 大王の御笠の山の黄葉(もみちば)は今日の時雨に散りか過ぎなむ

安貴王(あきのおほきみ)の歌一首

1555 秋立ちて幾日(いくか)もあらねばこの寝ぬる朝明の風は手本寒しも

忌部首黒麻呂(いみべのおびとくろまろ)が歌一首

1556 秋田刈る借廬(かりほ)もいまだ壊(こぼ)たねば雁が音寒し霜も置きぬがに

故郷の豊浦寺(とよらのてら)の尼が私房(いへ)に宴する歌三首

1557 明日香川ゆき廻(た)む岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ

右の一首は、丹比真人國人。

1558 鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも

1559 秋萩は盛り過ぐるをいたづらに挿頭(かざし)に挿さず帰りなむとや

右の二首は、沙弥尼等(さみにども)。

大伴坂上郎女が跡見(とみ)の田庄(たどころ)にてよめる歌二首

1560 妹が目を跡見の崎なる秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ

1561 吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くがともしさ

巫部麻蘇娘子(かむこべのまそをとめ)が雁の歌一首

1562 たれ聞きつこよ鳴き渡る雁が音の妻呼ぶ声のともしきまでに*

大伴家持が和ふる歌一首

1563 聞きつやと妹が問はせる雁が音はまことも遠く雲隠るなり

日置長枝娘子(へきのながえのをとめ)が歌一首

1564 秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも

大伴家持が和ふる歌一首

1565 我が屋戸の一むら萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも

大伴家持が秋の歌四首(よつ)

1566 久かたの雨間(あまま)も置かず雲隠り鳴きぞゆくなる早稲田(わさだ)雁が音

1567 雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ

1568 雨ごもり心いふせみ出で見れば春日の山は色づきにけり

1569 雨晴れて清く照りたるこの月夜また更にして雲なたなびき

右ノ四首ハ、天平八年丙子秋九月ニ作メリ。

藤原朝臣八束が歌二首

1570 ここにありて春日やいづく雨障(あまつつ)み出でて行かねば恋ひつつぞ居る

1571 春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高圓の山

大伴家持が白露の歌一首

1572 我が屋戸の尾花が上の白露を消(け)たずて玉に貫(ぬ)くものにもが

大伴村上が歌一首*

1573 秋の雨に濡れつつ居れば賤(いや)しけど我妹(わぎも)が屋戸し思ほゆるかも

右大臣(みぎのおほまへつきみ)橘の家にて宴する歌七首

1574 雲の上(へ)に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむと廻(たもとほ)り来つ

1575 雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ萩の下葉はもみちつるかも

右二首(ふたうた)。

1576 この岡に小鹿踏み起し窺(うか)狙ひかもかもすらく君故にこそ

右の一首(ひとうた)は、長門守巨曽倍朝臣津島。

1577 秋の野の尾花が末(うれ)を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも

1578 今朝鳴きてゆきし雁が音寒みかもこの野の浅茅色づきにける

右の二首は、阿倍朝臣蟲麻呂。

1579 朝戸開けて物思(も)ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな

1580 さ牡鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを

右の二首は、文忌寸馬養(あやのいみきうまかひ)。天平十年戊寅秋八月二十日。*

橘朝臣奈良麻呂が宴するときの歌十一首(とをまりひとつ)

1581 手折らずて散らば惜しみと吾(あ)が思(も)ひし秋の黄葉(もみち)を挿頭(かざ)しつるかも

1582 めづらしき人に見せむともみち葉を手折りそ吾(あ)が来し雨の降らくに

右の二首は、橘朝臣奈良麻呂。

1583 もみち葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉(もみち)をかざしつるかも

右の一首は、久米女王。

1584 めづらしと吾(あ)が思(も)ふ君は秋山の初もみち葉に似てこそありけれ

右の一首は、長忌寸娘(ながのいみきがむすめ)。

1585 奈良山の嶺のもみち葉取れば散る時雨の雨し間無く降るらし

右の一首は、内舎人(うちとねり)縣犬養宿禰吉男。

1586 もみち葉を散らまく惜しみ手折り来て今宵かざしつ何か思はむ

右の一首は、縣犬養宿禰持男。

1587 あしひきの山のもみち葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に

右の一首は、大伴宿禰書持。

1588 奈良山をにほふもみち葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも

右の一首は、三手代人名(みてしろのひとな)。

1589 露霜にあへる黄葉(もみち)を手折り来て妹と挿頭しつ後は散るとも

右の一首は、秦許遍麻呂(はたのこべまろ)。

1590 十月(かみなつき)時雨にあへるもみち葉の吹かば散りなむ風のまにまに

右の一首は、大伴宿禰池主。

1591 もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか

右の一首は、内舎人大伴宿禰家持。以前冬十月十七日、右大臣橘卿ノ旧宅ニ集ヒテ宴飲ス。

大伴坂上郎女が竹田の庄にてよめる歌二首

1592 黙(もだ)あらず*五百代(いほしろ)小田を刈り乱り田廬(たぶせ)に居れば都し思ほゆ

1593 隠国(こもりく)の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも

右、天平十一年己卯秋九月ニ作メリ。

仏の前にて唱ふ歌一首

1594 時雨の雨間無くな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも

右、冬十月(かみなつき)、皇后宮(きさきのみや)の維摩講(ゆゐまかう)に、終日(ひねもす)大唐(もろこし)高麗(こま)等の種種(くさぐさ)の音楽(うたまひ)を供養(つかへまつ)り、すなはち此の歌詞(うた)を唄ふ。琴弾きは市原王、忍坂王(おさかのおほきみ)後、大原真人赤麻呂ヲ賜姓フ。歌子(うたひと)は田口朝臣家守(やかもり)、河邊朝臣東人(あづまひと)、置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)等十数人(とたりまりのひと)なり。

大伴宿禰像見(かたみ)が歌一首

1595 秋萩の枝もとををに降る露の消なば消ぬとも色に出でめやも

大伴宿禰家持が娘子の門に到りてよめる歌一首

1596 妹が家(へ)の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも

大伴宿禰家持が秋の歌三首

1597 秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり

1598 さ牡鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1599 さ牡鹿の胸(むな)分けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる

右、天平十五年癸未秋八月、物色ヲ見テ作メリ。

内舎人石川朝臣廣成が歌二首

1600 妻恋に鹿(か)鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく

1601 めづらしき君が家なる幡薄(はたすすき)*穂に出(づ)る秋の過ぐらく惜しも

大伴宿禰家持が鹿鳴(しか)の歌二首

1602 山びこの相響(とよ)むまで妻恋に鹿鳴く山辺に独りのみして

1603 このごろの朝明に聞けばあしひきの山を響もしさ牡鹿鳴くも

右ノ二首、天平十五年癸未八月十六日ニ作メリ。

大原真人今城(おほはらのまひといまき)が寧樂の故郷を傷惜(を)しむ歌一首

1604 秋されば春日の山の黄葉見る奈良の都の荒るらく惜しも

大伴宿禰家持が歌一首

1605 高圓の野辺の秋萩このごろの暁(あかとき)露に咲きにけむかも

秋の相聞(したしみうた)


額田王の近江天皇を思(しぬ)ひてよみたまへる歌一首

1606 君待つと吾(あ)が恋ひをれば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く

鏡女王のよみたまへる歌一首

1607 風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

弓削皇子の御歌一首

1608 秋萩の上に置きたる白露の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは

丹比真人が歌一首

1609 宇陀の野の秋萩しぬぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく吾(あれ)には益さじ

丹生女王(にふのおほきみ)の太宰帥大伴卿に贈りたまへる歌一首

1610 高圓の秋野の上の撫子の花うら若み人の挿頭しし撫子の花

笠縫女王(かさぬひのおほきみ)の歌一首*

1611 あしひきの山下響み鳴く鹿の声ともしかも*吾(あ)が心夫(つま)

石川賀係女郎(かけのいらつめ)が歌一首

1612 神(かむ)さぶと否(いな)にはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも

賀茂女王の歌一首*

1613 秋の野を朝ゆく鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今宵か

右ノ歌、或ハ云ク椋橋部女王、或ハ云ク笠縫女王ノ作。

遠江守櫻井王の天皇に奉らせる歌一首

1614 九月(ながつき)のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも

天皇の報和(こた)へませる御歌(おほみうた)一首

1615 大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのごろ

笠女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌一首

1616 朝ごとに見る我が屋戸の*撫子が花にも君はありこせぬかも

山口女王の大伴宿禰家持に贈りたまへる歌一首

1617 秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙は留みかねつも

湯原王の娘子に贈りたまへる歌一首

1618 玉にぬき消たず賜(たば)らむ秋萩の末(うれ)わわら葉に置ける白露

大伴家持が、姑(をば)坂上郎女の竹田の庄に至りてよめる歌一首

1619 玉ほこの道は遠けど愛(は)しきやし妹を相見に出でてぞ吾(あ)が来し

大伴坂上郎女が和ふる歌一首

1620 あら玉の月立つまでに来まさねば夢(いめ)にし見つつ思ひぞ吾(あ)がせし

右ノ二首、天平十一年己卯秋八月ニ作メリ。

巫部麻蘇娘子が歌一首

1621 我が屋戸の萩が花咲けり見に来ませいま二日ばかりあらば散りなむ

大伴田村大嬢が妹坂上大嬢(さかのへのおほいらつめ)に与(おく)れる歌二首

1622 我が屋戸の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を

1623 我が屋戸ににほふ楓(かへるで)見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし

坂上大娘が秋稲蘰(いなかづら)を大伴宿禰家持に贈れる歌一首

1624 吾(あ)が蒔ける早稲田(わさだ)の穂立作りたる蘰そ見つつ偲はせ我が背

大伴宿禰家持が報贈(こた)ふる歌一首

1625 我妹子が業(なり)と作れる秋の田の早稲穂(わさほ)の蘰見れど飽かぬかも

また著ならせる衣を脱きて家持に贈れるに報ふる歌一首

1626 秋風の寒きこのごろ下に着む妹が形見とかつも偲はむ

右ノ三首、天平十一年己卯秋九月ニ徃来ス。

大伴宿禰家持が、非時(ときじく)の藤の花、また芽子(はぎ)の黄葉(もみち)の二物(ふたくさ)を攀(を)りて、坂上大嬢に贈れる歌二首

1627 我が屋戸の時じく藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを

1628 我が屋戸の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞ黄葉(もみ)てる

右ノ二首、天平十二年庚辰夏六月ニ徃来ス。

大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌

1629 ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし
   妹と吾(あ)が 手携さはりて 朝(あした)には 庭に出で立ち
   夕へには 床うち払ひ 白妙の 袖さし交(か)へて
   さ寝し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそは
   峰(を)向かひに 妻問すといへ うつせみの 人なる我(あれ)や
   何すとか 一日一夜(ひとひひとよ)も 離(さか)り居て 嘆き恋ふらむ
   ここ思(も)へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと
   高圓の 山にも野にも うち行きて 遊び歩けど
   花のみし にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ
   いかにして 忘れむものぞ 恋ちふものを

反し歌

1630 高圓の野辺の容花(かほばな)面影に見えつつ妹は忘れかねつも

大伴宿禰家持が安倍女郎に贈れる歌一首

1631 今造る久迩(くに)の都に秋の夜の長きに独り寝(ぬ)るが苦しさ

大伴宿禰家持が久迩の京より寧樂の宅に留まれる坂上大娘に贈れる歌一首

1632 あしひきの山辺に居りて秋風の日に異(け)に吹けば妹をしぞ思(も)ふ

或者(あるひと)、尼に贈れる歌二首

1633 手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ

1634 衣手に水渋(みしぶ)付くまで植ゑし田を引板(ひきた)吾(あ)が延(は)へ守れる苦し

尼が頭句(もとのつがひことば)をよみ、また大伴宿禰家持が尼に誂(あつら)へて末句(すゑのつがひことば)を続ぎて和ふる歌一首

1635 佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を 尼作ム 刈る早飯(わさいひ)は独りなむべし* 家持続グ

冬の雑歌(くさぐさのうた)


舎人娘子(とねりのいらつめ)が雪の歌一首

1636 大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに

太上天皇(おほきすめらみこと)のみよみませる御製歌(おほみうた)一首

1637 幡すすき尾花逆(さか)葺き黒木もち造れる屋戸は*万代までに

天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)一首

1638 青丹よし奈良の山なる黒木もち造れる屋戸は座(ま)せど飽かぬかも

右聞クナラク、左大臣長屋王ノ佐保ノ宅ニ御在シテ肆宴キコシメシテ、御製セリ。

太宰帥大伴卿の、冬の日雪を見て京(みやこ)を憶(しぬ)ひたまふ歌一首

1639 沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも

太宰帥大伴卿の梅の歌一首

1640 吾(あ)が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも

角朝臣廣辨(ひろべ)が雪のうちの梅の歌一首

1641 沫雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも

安倍朝臣奥道(おきみち)が雪の歌一首

1642 たな霧(ぎ)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代(しろ)にそへてだに見む

若桜部朝臣君足が雪の歌一首

1643 天霧(あまぎら)し雪も降らぬかいちしろくこのいつ柴に降らまくを見む

三野連石守(いそもり)が梅の歌一首

1644 引き攀(よ)ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入(こき)れつ染(し)まば染むとも

巨勢朝臣宿奈麻呂が雪の歌一首

1645 我が屋戸の冬木の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも

小治田朝臣東麻呂が雪の歌一首

1646 ぬば玉の今夜の雪にいざ濡れな明けむ朝(あした)に消(け)なば惜しけむ

忌部首黒麻呂が雪の歌一首

1647 梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る

紀少鹿女郎(きのをしかのいらつめ)が梅の歌一首

1648 十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして

大伴宿禰家持が雪のうちの梅の歌一首

1649 今日降りし雪に競(きほ)ひて我が屋戸の冬木の梅は花咲きにけり

西の池の辺(ほとり)に御在(いま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす歌一首

1650 池の辺(べ)の松の末葉(うらば)に降る雪は五百重(いほへ)降りしけ明日さへも見む

右の一首は、作者(よみひと)未詳(しらず)。但シ堅子(ワラワ)阿倍朝臣蟲麻呂伝誦セリ。

大伴坂上郎女が歌一首

1651 沫雪のこのごろ継ぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ

池田廣津娘子(いけだのひろきづのをとめ)が梅の歌一首

1652 梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり

縣犬養娘子(あがたのいぬかひのいらつめ)が、梅に依(よ)せて思ひを発(の)ぶる歌一首

1653 今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の土に落ちめやも

大伴坂上郎女が雪の歌一首

1654 松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむ由(よし)はかもなき*

冬の相聞(したしみうた)


三国真人人足(ひとたり)が歌一首

1655 高山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬとか言はも恋の繁けく

大伴坂上郎女が歌一首

1656 酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みて後には散りぬともよし

姓名和ふる歌一首*

1657 官(つかさ)にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ

右、酒ハ官禁制シテ称ク、京中ノ閭里、集宴スルコトヲ得ズ。但シ親親一二飲楽スルハ聴許スト。此ニ縁リ、和フル人此ノ発句ヲ作メリ。

藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)の天皇に奉れる御歌一首

1658 我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし

池田廣津娘子が歌一首

1659 真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背

大伴宿禰駿河麻呂が歌一首

1660 梅の花散らす冬風(あらし)の音のみに聞きし我妹(わぎも)を見らくしよしも

紀少鹿女郎が歌一首

1661 久かたの月夜を清み梅の花心に開(さ)きて吾(あ)が思(も)へる君

大伴田村大娘が妹坂上大娘に与(おく)れる歌一首

1662 沫雪の消ぬべきものを今までに永らへ経(ふ)るは妹に逢はむとぞ

大伴宿禰家持が歌一首

1663 沫雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕(たまくら)まかず独りかも寝む


 


                   巻第八了



         巻頭へ戻る